0120-971-616 受付時間 9:00〜18:00

  • お客様の声へ
  • よくある質問へ

陶磁器全般買取致します

近藤悠三の買取実績

 
【群馬県】人間国宝 近藤悠三の花瓶を買取しました。

※買取商品の状態によって価格は変わりますので詳しくはお問い合わせください。

掲載されている買取実績についてご質問などありましたら、下記までお問い合わせください。

TEL . 0120-766-299
MAIL . contact@romandrop.jp
営業時間. 9:00 ~ 18:00

遺品整理の買い取りはお任せ下さい

ご家族が亡くなり、いざ遺品整理をしようとしても、価値が判らない、物が多すぎてどこから手をつけて良いのか判らないなど、頭を悩ますことが多いですよね。
生前大事にされていた形見の品など、無暗に手を付けるのは故人に対し申し訳ないと、処分するにもなかなか手が進まない場合もあるでしょう。

浪漫ドロップではそんな悩みの多い遺品整理を、遺品整理士の資格を持った担当者がご遺品の買取をさせて頂いています。
故人が大切にしていたコレクションや、お家の家財道具一式は勿論のこと、引き継いだ物の量が多すぎて置き場所に困っているご遺品の数々を、適切に選別させて頂き高価買取いたします。
遺品整理にて売りたい骨董品や美術品、故人が大切にしていたお品物がありましたら、浪漫ドロップへお任せください。

家屋・蔵の解体時の買取はお任せください

ご空き家やリフォーム・建て替えで古くなったお家や蔵の解体をする際、処分に困るのが解体業界で「残地物」と呼ばれる廃棄物です。
解体業者さんに処分を依頼すると追加料金がかかるので、解体費用より処理費用の方にお金がかかってしまったり、本来は売れる物でも処分費用がかかってしまったり、お客様が損してしまうケースが多いです。

そんな悩みの種の「残地物」を浪漫ドロップでは丁寧に選別・査定させて頂き価値を見出し高価買取しております。
旧家・古民家、蔵の残地物でお困りの方は、お気軽にお問い合わせ下さい。
美術品や骨董品の買取は勿論のこと、格子戸や帯戸、藏戸などの建具類まで、家屋や蔵の中のお品物を無料査定・出張買取致します。
家屋や蔵を解体するご予定がありましたら、何も処分しない状態で取り壊す前にぜひ、浪漫ドロップへご連絡下さいませ。

陶磁器を知る~近藤悠三(こんどう・ゆうぞう)~


呉須一筋の独自陶域開く

近藤悠三(こんどう・ゆうぞう)は、京焼の本場、京都清水(きよみず)出身の陶芸家で、大正から昭和にかけて活躍しました。雄渾な染付(そめつけ)装飾を基本として、時に金彩や赤絵も施す磁器作品に優れ、人間国宝にも認定されました。陶器とは無縁の家系でしたが、陶磁器伝習所や陶芸家・富本憲吉に学んで陶業を開始し、研鑽を重ねて「呉須(ごす。染付顔料)一筋」とする、独自陶域を切り開きます。そうして生み出された、雄渾かつ鮮烈な印象の作品は、「近藤染付」として国内のみならず、海外にも広く知られました。また、創作活動以外にも、京都市立美術大学(のち京都市立芸術大学に改名)の教授や学長を務めるなど後進教育にも尽力します。元京都芸大教授で陶芸家の近藤豊は長男、陶芸家の近藤濶(ひろし)は次男で共々教導し、孫で陶芸家・美術家の近藤高弘にも影響を与えました。

父と環境に導かれ陶芸へ

近藤悠三(本名雄三)は、明治35(1902)年、現京都市東山区に生まれます。父は官吏でしたが、悠三には手仕事を勧めました。実家周辺は清水焼の窯が煙をあげる地。大正3(1914)年に小学校を卒業すると、その環境に導かれるように12歳で京都市立陶磁器試験場付属伝習所の、轆轤(ろくろ)科に入所します。意外にも図工が苦手で職人修業を好みませんでしたが、持ち前の負けん気で轆轤技の習得に努力し、伝習所修了後も試験場の助手として採用されるほどとなりました。そこで、技手として働いていた後の陶芸家、河井寛次郎濱田庄司らを知り、濱田より窯業科学等を教わり、自身も手轆轤を教授するなどして交流します。

多大なる師の影響受け独立

大正10年、濱田の推薦により、奈良の実家に窯を開いた富本憲吉の助手となりました。近藤悠三は、陶芸を芸術と捉えて活動を始めた富本から、陶技の他、陶芸家としての姿勢を学び、のちの作風確立への大きな影響を受けます。同13年、富本のもとを辞して帰郷し、京都の関西美術院に通ってデッサンや洋画を学びつつ、図書館や美術館等にも通い、様々なものを吸収します。これも陶芸以外の見聞の重要性を説いた、師富本の教えの実践でした。そして、同年母の支援により清水に窯を構えて本格的に作陶を始めますが、その後も絵画や漢詩等の吸収に努めます。

幸先良いスタート。戦後は染付に専念

昭和2(1927)年、知人の支援を受けて東京銀座で初個展を開きました。陶芸家、近藤悠三の初陣です。時に25歳、翌年には帝展への初入選も果たし、幸先の良いスタートを切りました。これ以降、悠三は毎年の帝展出品を目標に様々な技法を試みます。また、奈良での赤膚焼(あかはだやき)製作や朝鮮での作陶、工芸団体「蒼潤社」の結成や、百貨店での個展等々も、精力的にこなしました。そして、同14年には文展で特選を獲得します。
戦後は、富本が主導する新匠美術工芸会に参加し、同28年に京都市立美大に助教授として初就任します。同30年の日本工芸会所属以降は染付磁器の製作に集中し、同31年にはそれにより日本伝統工芸会賞を得ました。また、ミラノ・トリエンナーレでの銀賞獲得や、アメリカの現代世界陶芸展での選抜出品等により世界にも名を知られます。同40年には京都市立芸大の学長となり、同45年には紫綬褒章、同48年には勲三等瑞宝章受章の栄誉も受けました。そして、同52年に人間国宝に認定。その後も、昭和60(1985)年に亡くなるまで活躍を続けたのです。

近藤染付とその他作風

近藤悠三が得意とした染付とは、陶磁器の白素地に藍色顔料の呉須で模様入れして透明釉で覆う加飾法です。中国由来の技法で、日本では江戸初期(17世紀初頭)に有田で始まり、のちに京焼にも伝わり独自に発展しました。悠三は、その伝統に則りつつも、造形や加飾に工夫を加え、独自の作品とします。呉須の精製を7割程とし、あえてムラを出すことで単調さを避け、闊達な運筆で近代的ともいえる絵画的表現を実現したのです。
描かれたのは、山水・富士・柘榴(ざくろ)・梅・葡萄・竹の子等々。また、淡い赤茶色を出す釉裏紅(ゆうりこう)の併用も行なわれました。晩年には、それら基本表現の上に金彩や赤絵の背景を施し、その豪胆な作風に絢爛さも加えます。 なお、染付以外の技法では、釘彫りの線に鉄釉を入れる象嵌や、立体感ある色を得る瑠璃釉(るりゆう)や飴釉(あめゆう)、白絵具で盛り上げる白盛(しろもり)等があり、活動初期に試みられました。

不遇と不器用が大成導く

染付は本来様式が確立されており、単調で独自性を出し難い分野です。あえてそれに挑んだ近藤悠三は、実は工房の狭さにより仕方なく始めたといいます。代々の窯元出身等ではない不遇――。そして多彩な作風をこなす器用さもありませんでした。しかし、その不遇と不器用さが、一徹で力強い作陶を生み、大成へと導いたのです。

ページの先頭へ戻る