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常滑焼の買取実績

 
【強化買取】常滑焼の強化買取を行っています。

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遺品整理の買い取りはお任せ下さい

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浪漫ドロップではそんな悩みの多い遺品整理を、遺品整理士の資格を持った担当者がご遺品の買取をさせて頂いています。
故人が大切にしていたコレクションや、お家の家財道具一式は勿論のこと、引き継いだ物の量が多すぎて置き場所に困っているご遺品の数々を、適切に選別させて頂き高価買取いたします。
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家屋・蔵の解体時の買取はお任せください

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陶磁器を知る~常滑焼(とこなめやき)~


伝統陶芸と近代窯業併存の一大古窯

常滑焼(とこなめやき)は、愛知県南西部・知多半島の常滑市で作られる陶器とその産地名で、中世以前(12世紀頃)から現在まで続く、日本六古窯の一つとされています。重厚で力強い茶褐色の無釉・自然釉の炻器(せっき。焼締陶)の壺や甕(かめ)等で知られ、幕末(19世紀)以降は精巧な朱泥(しゅでい)の煎茶器等が主流となり今に続いています。
かつては知多半島一帯で生産され、中世最大の窯業地として全国へ出荷されました。主に大型の甕や小型の壺、山茶碗(やまぢゃわん)等が生産されましたが、江戸期(17世紀~)以降は酒器や鉢等の雑器も作られ、窯も常滑周辺に集約されるようになります。
幕末からは大陸風文人趣味とそれに伴う煎茶の流行により、「小細工物」と呼ばれる中国宜興窯(ぎこうよう)風の急須生産が盛んになりました。そして、明治以降もその流れが続きますが、それとは別に資材陶器を量産する近代的窯業地としても発展し、双方併せた一大産地として現在に至っています。

常滑焼の始まり

常滑焼の始まりは、奈良期の僧・行基(ぎょうき)や鎌倉期の伝説的陶工・加藤景正に因るとする等の様々な伝承があり定かではありません。ただ、発掘調査等から近隣の猿投窯(さなげよう)に影響されて平安末期(12世紀)には生産が始まっていたとみられます。
知多半島内で1000基以上も存在したとみられる古窯では、無釉の山茶碗・小皿・大平鉢(おおひらばち。片口)が多く作られ、他には緑色の自然釉がかかる壺・甕・瓶(へい)、そして瓦・土鍋等が、海の近さも活かされ全国へ出荷されました。その初期から、遺骨や経塚等の容器に使われる三筋壺(さんきんこ)・不識壺(ふしきこ)・経塚壺等が多く作られるなど、特殊品が多いという特徴も窺えます。

窖窯の終焉と窯の集約

室町期(14世紀後半~)に入ると、それまでの窖窯(穴窯)から半地下式の大窯にかわりはじめました。山茶碗や小皿の生産は減少し、やがて片口鉢と甕に限定されるようになり、特に貯蔵用の大甕が各地で使われます。また、燃料枯渇による外部調達や競合する備前焼への対抗からか、良港である常滑周辺での生産集約も起こりました。それには織田信長の禁窯令の影響とみる説もありますが、解釈・状況の相違もあり、定かではありません。
桃山期(16世紀末~17世紀初)には、茶の湯用の茶陶(ちゃとう)生産が流行し、常滑城主・水野監物(けんもつ)が常滑焼にも導入されますが広まりませんでした。なお、この頃までの江戸期以前か窖窯で作られたものが「古常滑」と呼ばれ、特に珍重されます。

細工物発達し名工輩出

江戸期(17世紀~)の常滑焼は、従来式の真焼物(まやけもの)、直火製品等向けの赤物(あかもの)、赤土製の朱泥物や瓦物等が、主に北条(きたじょう)・瀬木(せぎ)・常滑の三村で焼かれました。窯は大型の大窯(鉄砲窯)が使われるようになり、幕末には常滑の中興・鯉江方寿(こいえ・ほうじゅ)が登窯を導入し、器種によって使い分けられます。
また、煎茶器や酒器等の細工物が発達したため名工も輩出されました。江戸中期(18世紀)に活躍した常滑元功斎を始めとし、上村白鷗(はくおう)・赤井陶然(とうぜん)・2代伊那長三(ちょうざ)・松下三光(さんこう)等が続きます。朱泥は幕末に医師の平野忠司が陶工の杉江寿門(じゅもん)・片岡二光(にこう)に働きかけて使い始めました。

近代の発展・戦後の活況

近代となった明治11(1878)年、鯉江方寿が熱田にいた清国文人・金士恒(きん・しこう)を招聘して本場宜興の急須成形法を導入し、朱泥づくりを活性化させます。また、同33年から石炭窯が導入され、常滑焼が近代工業化する契機となりました。旧帝国ホテルにも使用されたタイルや、土管・テラコッタ・衛生陶器等の資材陶器生産が発展したのです。
戦後は、資材陶器の強みを発揮して高度成長期まで順調に発展し、昭和中期に起こった園芸ブームによる盆栽・植木鉢生産も活況を呈しました。朱泥急須等の食器類は、鋳込み成形が台頭しますが、経済産業大臣指定の伝統的工芸品ともなります。また3代目山田常山(じょうざん)が自然釉を施す独自技法を確立し、常滑焼初の人間国宝となりました。

古常滑の特色

約450年続いた古常滑焼の時代は、山茶碗や壺類が大量に焼かれ、その窯は山茶碗窯と壺窯に分けられて、前者が主に知多半島北部や南部、後者が中部にありました。
その成形は、山茶碗と小皿は轆轤(ろくろ)、その他は紐づくりで行われたとみられます。平安期の壺・甕等は薄づくりで優美さを備え、鎌倉期から厚づくりで力強いものとなり、還元焔焼成の前者は灰色や褐色で自然釉は濃緑色、酸化焔焼成の後者は褐色で自然釉は黄土色系となりました。また、それらは口径に比して底が狭く、砂底になっているのも特徴です。装飾的特徴は、三筋壺にみられる上下並行の三筋の刻線や、継ぎ目を補強する為の凸帯(とったい)や押印、宗教的印形(いんぎょう)である刻文等がありました。

近世物・朱泥急須等の特色

幕末頃からは、他産地の加飾法も採り入れられます。備前焼の代表技法である緋襷(ひだすき)や、それを独自に応用した藻掛(もがけ)、越前焼薩摩焼にみられる貼付文(てんかもん)の他、イッチン描き・飛びかんな・南蛮写し等が導入されました。
常滑焼を代表する存在となった急須は、地元の田土(たつち。赤土)を水簸(すいひ)したものが使われ、色・形・焼成等により、真焼・白泥(はくでい)・朱泥・紫泥(しでい)・烏泥(うでい)・南蛮等の種類があり、加飾では梨皮(りひ)・緋襷・藻掛・糸目・櫛目(くしめ)・自然釉等があります。また形状等により、茶銚(ちゃちょう)・茶注(ちゃちゅう)・宝瓶(ほうびん)・茗壺(めいこ)・湯罐(とうかん)等と呼び分けられました。

解明研究の進展待たれる

日本有数の歴史と規模を有する常滑焼。膨大な遺物や遺跡を残しながらも、発祥をはじめ、窯の変遷や構造等々、その実態は未だ解明されていません。新たな遺物発見や研究の進展が待たれるところです。

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