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陶磁器全般買取致します

織部焼の買取実績

 
【茨城県水戸市】鈴木五郎 絵織部 ぐい呑み

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遺品整理の買い取りはお任せ下さい

ご家族が亡くなり、いざ遺品整理をしようとしても、価値が判らない、物が多すぎてどこから手をつけて良いのか判らないなど、頭を悩ますことが多いですよね。
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浪漫ドロップではそんな悩みの多い遺品整理を、遺品整理士の資格を持った担当者がご遺品の買取をさせて頂いています。
故人が大切にしていたコレクションや、お家の家財道具一式は勿論のこと、引き継いだ物の量が多すぎて置き場所に困っているご遺品の数々を、適切に選別させて頂き高価買取いたします。
遺品整理にて売りたい骨董品や美術品、故人が大切にしていたお品物がありましたら、浪漫ドロップへお任せください。

家屋・蔵の解体時の買取はお任せください

ご空き家やリフォーム・建て替えで古くなったお家や蔵の解体をする際、処分に困るのが解体業界で「残地物」と呼ばれる廃棄物です。
解体業者さんに処分を依頼すると追加料金がかかるので、解体費用より処理費用の方にお金がかかってしまったり、本来は売れる物でも処分費用がかかってしまったり、お客様が損してしまうケースが多いです。

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美術品や骨董品の買取は勿論のこと、格子戸や帯戸、藏戸などの建具類まで、家屋や蔵の中のお品物を無料査定・出張買取致します。
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陶磁器を知る~織部焼(おりべやき)~


桃山を代表する斬新奇抜な逸品

織部焼(おりべやき)は、現在の岐阜県東南部・美濃地方で焼かれた陶器と、その様式名称です。美濃焼の一種で、桃山期(16末~17世紀初頭)の武家茶人・古田織部(ふるた・おりべ)が創始したとの伝承があります。鮮やかな青緑釉や闊達な鉄絵に、変形等の奇抜な造形で知られ、桃山を代表する茶陶(ちゃとう)、和陶の原点の一つを成しました。
その発生は天正末年から慶長初年頃(16世紀後期)とされ、元和・寛永(17世紀中頃)に生産が衰え、寛文年間(1661-1672)には生産されなくなったとみられます。
その名称は江戸初期(17世紀)以降に定着し、広義には古田織部の好みとされる、黄瀬戸(きぜと)・瀬戸黒(せとぐろ)・志野等の古美濃陶全般を指します。それら共々、当初から瀬戸焼と誤認されてきましたが、昭和初期の古窯調査により美濃焼と判明しました。
生産を終えても、斬新で飽きのこない意匠や造形が数寄者や作陶家から愛され、影響を与え続けました。現代では茶陶の他、様々な器に使われる定番種として復活しています。

新鋭陶器、豪放絢爛の世に現る

美濃古陶は、黄瀬戸と瀬戸黒が先ず現れ、次に志野、そして織部焼が登場したとみられます。千利休の高弟で戦国武将の古田重然(しげなり。織部)の関与で生まれたとされ、重然直筆の花押(かおう)入りの茶碗も伝来しています。最古の作品は天正末から慶長末までに作られたとみられる茶碗で、重然が歪みおどけた茶碗を使ったとの茶会記の記述や、他の年号入り作品の存在により、その頃の発祥とみられます。
しかし、重然がそれを創始・監修したという確証は未だありません。ただ、慶長は太閤秀吉の晩年から豊臣氏滅亡までの期間にあたり、豪放絢爛な桃山文化が花開いた時期。そして、利休に代わり重然が天下の茶匠となった時期です。そうした状況下、突如これまでにない姿や雰囲気を以て登場した新鋭の焼物が、織部焼だったのです。
それは当時最新の登窯や型を使い大量に焼かれます。都市の町衆や貴人向けの茶陶・高級食器だと思われますが、その生産は窯大将という陶工の長が統括しました。そして、彼らに意匠や造形を指示したのが、町衆もしくは重然ではないかと推測されているのです。

天下の茶匠・古田織部

織部焼との関わりが窺われる古田重然は、天文13(1544)年頃、美濃の土豪の子として生まれ、織田信長に仕えます。信長の死後は豊臣秀吉に仕えて武功を立て大名となりました。秀吉の死後は徳川に仕えますが、大坂の陣で豊臣家との内通を疑われ、慶長20年に70余歳で切腹させられます。
当時の書状や茶会記によると、40歳頃には茶人として知られ、利休死後の慶長期には名人と記され、将軍・徳川秀忠の師範もこなして茶の第一人者となりました。その「好み」は、乱世の武家らしく武骨で荒々しいもの。師・利休の静的な世界と違い動的なものでしたが、作意の独自性を説く師の遺志に適い、時代や織部焼の世界観にも適うものでした。

江戸初期の隆盛とその後の衰退

織部焼は17世紀初期まで流行したとみられ、17世紀半ばには衰退し、寛文期に生産を終えます。桃山の気風や町衆の衰退、小堀遠州らの新しい茶の流行によるとみられます。ただ、数寄者らの間ではその後も「織部好み」として珍重され、模作も行なわれました。
そして、元禄初年頃(17世紀末)には今日的な意味での織部焼の呼称が一般化し、江戸後期には茶書等の出版隆盛により、重然と織部焼を結びつける俗説が定型化しました。

織部焼復興。普遍化・定番化へ

昭和初期になると、中心的な元屋敷窯等の古窯址調査が盛行します。それにより、従来の瀬戸焼説が覆され美濃焼であることが判明しました。そして、それらや出土陶片の研究により、加藤唐九郎をはじめ北大路魯山人らが本格的な倣作を行ないます。
その後は、他の作家・他産地でも行われ、織部焼の意匠や形状は普遍的な作風の一つとして定着し、茶器・食器に関わらず、様々な器種に用いられる定番品となりました。現在の美濃では飛井隆司・伊村彰介・加藤摑也(くにや)・川合正樹・佐々木正・佐藤和次・高木典利・瀧口喜兵爾(きへいじ)・竹村修・久野勝生(しょうせい)等の作家が知られます。

作風と器種

青織部(あおおりべ)は、青釉と鉄釉の線文が併用されたもの。最も多い一般的なもので、青釉は浸しがけの「突っ込みがけ」や柄杓による「流しがけ」で施されました。
総織部(そうおりべ)は、青釉が器胎全面にかけられたもの。無地のほか、透かし彫りや線彫を施したものがあります。文様には菖蒲や騎馬人物等の図柄が多くみられます。
鳴海織部(なるみおりべ)は、赤白の胎土を接合し、白土上に青釉、赤土上に線描を施したもの。華やかな印象で、その名は文様が着物の鳴海絞に似る為など、諸説あります。
赤織部は、赤土のみで出来た作品で、器表に白泥を塗り、線描が描かれたものです。
織部黒(おりべぐろ)は、器胎全面に黒い鉄釉をかけたもの。瀬戸黒同様、焼成中に窯から引き出し、急冷して黒色に発色させました。茶碗に多く、沓形(くつがた)や筒形があります。
黒織部は、黒釉を窓抜き状に部分がけし、窓の部分に白釉をかけたもの。白釉上に鉄文が入ったもの、または白釉自体を模様とする場合もあります。
志野織部・無地織部は、一見志野焼に見える織部焼で、光沢のある薄い施釉をした白い織部焼です。絵織部はそれに鉄絵を加えたもの。織部染付とも呼ばれます。
美濃伊賀は、伊賀焼風の荒々しい造形に、その特徴である自然釉のなだれを鉄釉のたらしがけで代用し、加えたもの。水指(みずさし)や花生(はないけ)に多くみられます。

織部焼の器種は多く、茶碗・鉢・蓋物・向付(むこうづけ)・香合香炉・水指・花生・茶入(ちゃいれ)・酒器・銚子・振り出し等の茶陶・懐石器の他、 ・水滴・煙管(キセル)・灯器・盃台・燭台・コップ形・屏風押え・井戸車等々に及び、それぞれの形状も多彩で、その最大の特徴は、沓茶碗等に見られる大胆な変形でした。
また、模様の種類も多く、自然や衣装、舶来品等々、全分野からの取材がみられます。

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