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陶磁器全般買取致します

益子焼の買取実績

 
【栃木県】島岡達三の湯呑セットを買取りました。
 
【東京都世田谷区】陶芸家 ゲルト・クナッパーのビールジョッキ…
 
華道の先生より人間国宝浜田庄司作の花瓶など

※買取商品の状態によって価格は変わりますので詳しくはお問い合わせください。

掲載されている買取実績についてご質問などありましたら、下記までお問い合わせください。

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営業時間. 9:00 ~ 18:00

遺品整理の買い取りはお任せ下さい

ご家族が亡くなり、いざ遺品整理をしようとしても、価値が判らない、物が多すぎてどこから手をつけて良いのか判らないなど、頭を悩ますことが多いですよね。
生前大事にされていた形見の品など、無暗に手を付けるのは故人に対し申し訳ないと、処分するにもなかなか手が進まない場合もあるでしょう。

浪漫ドロップではそんな悩みの多い遺品整理を、遺品整理士の資格を持った担当者がご遺品の買取をさせて頂いています。
故人が大切にしていたコレクションや、お家の家財道具一式は勿論のこと、引き継いだ物の量が多すぎて置き場所に困っているご遺品の数々を、適切に選別させて頂き高価買取いたします。
遺品整理にて売りたい骨董品や美術品、故人が大切にしていたお品物がありましたら、浪漫ドロップへお任せください。

家屋・蔵の解体時の買取はお任せください

ご空き家やリフォーム・建て替えで古くなったお家や蔵の解体をする際、処分に困るのが解体業界で「残地物」と呼ばれる廃棄物です。
解体業者さんに処分を依頼すると追加料金がかかるので、解体費用より処理費用の方にお金がかかってしまったり、本来は売れる物でも処分費用がかかってしまったり、お客様が損してしまうケースが多いです。

そんな悩みの種の「残地物」を浪漫ドロップでは丁寧に選別・査定させて頂き価値を見出し高価買取しております。
旧家・古民家、蔵の残地物でお困りの方は、お気軽にお問い合わせ下さい。
美術品や骨董品の買取は勿論のこと、格子戸や帯戸、藏戸などの建具類まで、家屋や蔵の中のお品物を無料査定・出張買取致します。
家屋や蔵を解体するご予定がありましたら、何も処分しない状態で取り壊す前にぜひ、浪漫ドロップへご連絡下さいませ。

陶磁器を知る~益子焼(ましこやき)~


後発地から先進地へ

100年以上の歴史を有する工芸品に与えられる「伝統的工芸品」の国家認定。栃木県東南部の益子(ましこ)で作られる益子焼も、その認定を受ける主要陶器となっています。 しかし、その創業は幕末の19世紀半ばと、他窯に比べ新しい焼物でした。また、当初は、その土質から繊細な鑑賞陶器には適さず、名工輩出や茶道とも無縁の、日用雑器の産地として存在しました。 幸い大消費地の東京に近く、海外輸出の波にも乗り好況も得ましたが、やがて衰退の影が忍び寄ります。その危機を救ったのが、民芸運動の先導的陶芸家、濱田庄司(はまだ・しょうじ)です。 彼は益子とその焼物の素朴さに惹かれ、当地で創作を始めます。益子の土・技法を使ったその活躍は、やがて内外に知られるようになり、益子の知名度も高めました。 それは、益子の陶工たちに指針を与え、多くの人材を呼び寄せます。
そして、そこで生じた自由な気風は、やがて加守田章二(かもだ・しょうじ)のような、民芸を超えた現代陶芸作家も輩出し、益子を陶芸先進地へと発展・変貌させたのです。

益子焼のはじまり

新しい陶業地の益子ですが、焼物作り自体は、遠く縄文時代草創期(約13000年前)から始まっていました。 その後も弥生時代中期(紀元前1世紀)以降の土器が見られ、奈良時代(8世紀)に入ると、大陸式製陶土器「須恵器」(すえき)や瓦作りが盛行し、平安時代中頃(10世紀後半)まで続きました。 しかし、ここで焼物作りは途絶えます。武士の台頭による社会混乱等も考えられますが、事情は判明していません。
そして、約800年もの断絶を経た、幕末の嘉永5(1852)年、陶土を発見した当地の農民、大塚啓三郎が築窯し、製陶を開始。 隣接する先行産地の笠間(茨城県西部)で技術を得ていた啓三郎は、益子の領主黒羽藩(くろばねはん)の庇護を受け、その産業振興の一環として創業したのです。 これが現在の益子焼の源であり、啓三郎は後に「陶祖」として尊崇されます。なお、菊池清蔵を先とする伝承もありますが、詳細は不明です。

土瓶の益子

創業後数年にして窯元は6軒程に増え、江戸への販売が企図されるなど、相応の製品として成長します。 兼業経営などが影響し、一時は資金に窮したようですが、藩の保護強化と専売化により体制を整えます。 この頃生産されたのは、土瓶や擂鉢(すりばち)・壺・片口・徳利・行平・土鍋・土釜(どがま)を中心とする日用品でした。 製品は馬で鬼怒川まで運ばれ、そこから舟で江戸(東京)に運ばれ販売されました。こうして、新しい焼物は藩を潤し、陶業地益子を発展させます。明治4(1871)年には、廃藩置県により御用窯から民窯へ移行しますが、東京や関東一円に出荷され、発展を続けます。 窯元数は20軒以上となり、白土がけに絵付けを施した土瓶や土鍋が主力となります。 同10年以降は西南戦争での不況の影響も受けますが、やがて景気の安定化と共に回復していきます。 その間には、京都などの先進地より陶工を招き、技術改良も図られました。
そして、明治中期には土瓶全盛となり、中でも軽やかな線描が施された「山水土瓶」が多く作られ、土瓶産地として名を馳せます。

凋落の兆し

明治30年代以降(1897年~)はアメリカなどへの土瓶輸出が好調となり、組合や伝習所も組織され、生産額は増大しました。 しかし、明治末年頃から粗製乱造による信用低下と生活様式の変化による停滞の兆しが現れます。普及し始めた都市ガスの火力に耐えられないなどといった、益子焼の凋落が始まったのです。 販路を地方へと拡大する方策も採られましたが、不況も続いたため好転しませんでした。 大正12(1920)年の関東大震災による特需で一時的に活況を得ましたが、問題は据え置かれます。

濱田庄司の変革と隆盛

そこに、山水土瓶に惹かれ、益子の素朴な風情を求めた濱田庄司が現れました。 「用の美」を尊ぶ民芸運動に同調し、英国の田舎での作陶後の拠点を益子に定めたのです。 濱田は当地の製陶法を用いつつ、各地で学んだものも取り入れ、新しい民芸陶器を創造します。 初めは距離を置いていた窯元も次第に影響され、壺や花瓶などの工芸品を多く作るようになりました。 「台所土間から床の間への出世」と呼ばれた、変革がもたらされたのです。
その後は、恐慌や戦争、樹脂製品の伸張といった危機もありましたが、昭和31(1956)年に駅弁容器「窯っ子」の大量受注が始まったことにより安定期を迎えました。 また、同30年に人間国宝にも認定される濱田の活躍は、益子を民芸産地として内外に知らしめます。 濱田が確立した新技術を以て生産された「民芸益子焼」は、昭和40年代からの民芸ブームに乗って好評を博し、観光ブーム等とも相まって今に続く繁栄をもたらしました。

益子焼を彩る「釉薬と施釉」

益子の土は、粗く可塑性を欠き耐火度も低いため必然厚手の器体となります。 また土味(つちあじ)の強い釉薬は絵付けにも向かず、仕上げも素朴なものに限られました。 しかし、釉薬の組合せや、その施し方により、特徴的な彩りを得ています。 釉薬には、透明の「並白釉(なみじろゆう)」や白の「糠白釉」、褐色で益子(笠間)特有の「柿釉(かきゆう)」に、飴色の「飴釉」や「黒釉」「灰釉」「青釉」があり、濱田が導入した塩でガラス質を得る「塩釉(えんゆう)」も使われています。 施釉には、柄杓等で全体に釉薬をかけたり一部にかけて模様を成したりする「流掛け(ながしがけ)」や、同じく柄杓で線描を流し描く「流描き」が代表的です。その他には、濃い釉薬で刷毛目を残す「刷毛掛け」や、筒状の器具で線描を描く「筒描き」等も行われます。

民芸を超えて

濱田と民芸による益子の変革は、生産者も惹きつけ、多くの若者が益子で開窯します。 その中からは、民芸を独自に発展させて人間国宝ともなった島岡達三等もいました。 益子は外から人が集まる陶芸の中心地となり、その自由な気風から、やがて民芸を超えた作家や創作を生みだします。 加守田章二はその代表で、益子を現代陶芸の先端地ともし「創作性が強い」という新たな印象も加えました。 その後も益子は、様々な人材や創作活動を育み、進化を続けています。

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