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陶磁器全般買取致します

島岡達三の買取実績

 
【栃木県】島岡達三の湯呑セットを買取りました。

※買取商品の状態によって価格は変わりますので詳しくはお問い合わせください。

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遺品整理の買い取りはお任せ下さい

ご家族が亡くなり、いざ遺品整理をしようとしても、価値が判らない、物が多すぎてどこから手をつけて良いのか判らないなど、頭を悩ますことが多いですよね。
生前大事にされていた形見の品など、無暗に手を付けるのは故人に対し申し訳ないと、処分するにもなかなか手が進まない場合もあるでしょう。

浪漫ドロップではそんな悩みの多い遺品整理を、遺品整理士の資格を持った担当者がご遺品の買取をさせて頂いています。
故人が大切にしていたコレクションや、お家の家財道具一式は勿論のこと、引き継いだ物の量が多すぎて置き場所に困っているご遺品の数々を、適切に選別させて頂き高価買取いたします。
遺品整理にて売りたい骨董品や美術品、故人が大切にしていたお品物がありましたら、浪漫ドロップへお任せください。

家屋・蔵の解体時の買取はお任せください

ご空き家やリフォーム・建て替えで古くなったお家や蔵の解体をする際、処分に困るのが解体業界で「残地物」と呼ばれる廃棄物です。
解体業者さんに処分を依頼すると追加料金がかかるので、解体費用より処理費用の方にお金がかかってしまったり、本来は売れる物でも処分費用がかかってしまったり、お客様が損してしまうケースが多いです。

そんな悩みの種の「残地物」を浪漫ドロップでは丁寧に選別・査定させて頂き価値を見出し高価買取しております。
旧家・古民家、蔵の残地物でお困りの方は、お気軽にお問い合わせ下さい。
美術品や骨董品の買取は勿論のこと、格子戸や帯戸、藏戸などの建具類まで、家屋や蔵の中のお品物を無料査定・出張買取致します。
家屋や蔵を解体するご予定がありましたら、何も処分しない状態で取り壊す前にぜひ、浪漫ドロップへご連絡下さいませ。

陶磁器を知る~島岡達三(しまおか・たつぞう)~


独自の「縄文象嵌」確立

揺らぎ流れる縄目文。あるいは鈍く、あるいはガラスの光沢を放ちます。組紐が成したその躍動は作為を超えて器体を覆いますが、決して前に出ず理知的な冷静さを保ちます――。
陶芸家、島岡達三が到達した「縄文象嵌」の技法。師で、益子焼の民芸派作家濱田庄司の技や思想を継承しながらも、独自の「用の美」を獲得し人間国宝にまで認定されました。しかし、その道程は平坦ではありませんでした。元来陶家の出ではなく、自身の美的才能にも懐疑的だった為、当初は科学知識を応用して釉薬に特色ある陶工になることを目指します。しかし、古民芸との出会いと、民芸運動の提唱者、柳宗悦(やなぎ・むねよし)の思想に鼓舞され、濱田の元へ飛び込むこととなりました。厳しくも配慮ある濱田の指導で陶工としての基礎を得ますが、師の作風追従から脱せず、長く苦しい模索が続きます。そして、遂に親の生業等を手掛かりとして作風を確立しました。その後は、濱田の後継者として、益子の民芸陶器発展と後進育成にも尽力したのです。

民芸作陶志す

島岡達三は大正8(1919)年、東京市芝区(現東京都港区)に生まれました。父米吉は代々の組紐師で、達三も跡を継ぐ筈でしたが、親の勧めや本人の希望により、東京府立高等学校理科に進みます。その在学中に、日本民藝館で濱田らの作品と出会い、焼物への興味を持ちました。そして、柳の著作に影響され、民芸作陶を志すこととなります。昭和14(1939)年には、志通り東京工業大学窯業科に進みました。休み期間中には濱田を訪ねるなどして指導を受け、手轆轤等、大学にはない実技を習います。

激戦地からの生還。作陶人生へ

しかし、同16年に大学を繰上げ卒業し、翌年には軍隊に入り修行は断たれました。同18年には激戦地ビルマへ投入され、現地で終戦。捕虜収容所を経て同21年に漸く復員します。そして、焼野原で両親を探し当て、一家で栃木の益子へ赴き濱田に入門しました。生還出来れば思いっきり焼物を作る、と戦地で願った日々の成就です。敗戦の混乱の中、3年間の修行に耐えて陶工としての基礎を得ます。同25年には、濱田の紹介で栃木県の窯業指導所に勤務し、粘土や釉薬の徹底した研究を行いました。

自己確立への苦悩

同28年に指導所を退職し、自宅と窯を築いて独立します。翌年には東京で初個展を開催しますが、濱田の作風影響から抜け出せず、師からも自己の確立を促されました。自身の才能を疑い、無名の職人仕事に徹するつもりであった達三は大いに苦悩します。濱田は民窯の出ではない達三を案じ、作家として立つことを諭したのでした。
達三は新しい手法を探す努力を続けます。そんなある日、以前縄文土器複製の仕事を手伝ったことを思い出しました。濱田に学校教材として原型制作の依頼が入り、製法等を共に研究したのです。その際、各地の大学や博物館に赴いて見学し、研究者から縄文模様の付け方も学んでいました。これを思い出して作品に試みると、興味深い結果を得ました。また、組紐師であった父米吉が、様々な組紐を組んでくれたことにも助けられます。これを研究・発展させ、同35(1960)年頃、遂に独自の縄文象嵌を得ました。

飛躍。広報や後進支援も

独自の表現を得た達三は以後飛躍します。同37年には日本民藝館賞を受賞し、内外で個展を開き、講演や著述によって益子焼や民芸に対する広報も担いました。また、各地で作陶指導も行い、後進への支援も行います。平成8(1996)年には人間国宝に認定されました。同11年には旭日小綬章を受章し、その後も内外で個展・講演を行うなどして活動を続けます。そして、同19(2007)年、88歳にて、その生涯を終えました。

島岡象嵌の技法

達三が獲得し、特徴とした縄文象嵌の手法は、素地に付けられた縄文の窪みに白土を充填して削り出すというもの。それは、李朝の三島手(みしまて)技法を援用したものですが、民芸的雄健さと近代的独自性の付与に因り「島岡象嵌三島手」とも呼ばれました。その模様は大別して、線状の「筋」と、への字状の「矢羽根」、点描状の「ポチ」の三種。釉は、益子の物や濱田が工夫した物を使いましたが、象嵌には高温焼成が必要な為、それに耐え得る独自の艶消し釉も開発しました。また、濱田が導入したガラス光沢を得る塩釉(えんゆう)も多用し、その鈍さと鋭さを使い分けて、特色の一つとしました。

師と自身を超えた芸術

古代の有機的技法、民芸の素朴さに倣いながらも、理知的な気品を湛える達三作品。自身の限界を若い内から悟り、柳の言う他力による民芸美を、愚直なまでに追求した到達点とも言えます。しかし、そこには彼の情熱や粘り強さが息づいていることも見逃せません。苦悩と努力、そして人生を費やして、師の影と自身の限界を超えた島岡芸術。そこには、静かで実直な巨匠の姿を垣間見ることが出来ます。

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