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萩焼の買取実績

 
【東京都武蔵野市】遺品整理にて十一代坂高麗左衛門の茶碗を買取…

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遺品整理の買い取りはお任せ下さい

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家屋・蔵の解体時の買取はお任せください

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陶磁器を知る~萩焼(はぎやき)~


茶陶起源の軽やかで味わい深い器

萩焼は、山口県萩市を中心に、桃山時代末の17世紀初頭頃から現在まで作られている陶器です。明るく軽やかな印象と質 感を持ち、茶器や食器等の様々なものが作られ、広く愛用されました。その吸水性により、使い込むほど「萩の七化け」 と呼ばれる、味わい深さを楽しめることも、その特徴です。
元は唐津焼等の西日本諸窯と同じく、大陸からの渡来工による茶器、即ち「茶陶(ちゃとう)」生産がその始まりで、や がて「一井戸、二萩、三唐津」と評されるほどまで、その名を高めました。その後も、江戸時代を通して長州藩の御用窯 として茶器や雑器を生産しましたが、明治時代以降は、その庇護を失い、他産地との競合にもさらされ衰退します。 しかし、大正期に得意の茶陶への回帰が始められ、伝統工芸を称揚する「民芸運動」の高まりも受けて、再び茶の世界へ の浸透を果たしました。
その後は、古陶再現を目指す全国的な流れの中で、開窯初期の「古萩」の研究や再現が進み、今日に続く著名陶芸地とし ての地位を確立したのです。

朝鮮陶工による御用窯として開窯

萩焼は、豊臣秀吉が起こした文禄・慶長の役(16世紀末)に、長州藩祖毛利輝元が出征したことを機に渡来した、朝鮮人 李勺光(り・しゃくこう)が始めたとされます。勺光は李氏朝鮮の官窯工で、当時日本で珍重された高麗茶碗等の製造に 通じた人物とされます。
慶長9(1604)年に毛利の居城が萩へ移された際に従い、城下東郊の松本に御用窯を開きました。また、追って渡来した 弟の李敬も、同じく高麗焼物細工の窯を開きます。当時の史料がなく詳細は不明ですが、萩移転から時を経ず開窯したこ とは確かだと思われます。
その後、勺光は山村姓、敬は坂姓を名乗り、藩の庇護の下、他の焼物師たちを束ねつつ作陶を続けます。

深川への分窯と松本の生産強化

17世紀半ばになると、勺光の跡を継いだ山村松庵の弟子筋の陶工らが、西方の深川(ふかわ。現長門市)での開窯を許さ れます。松庵の子も深川に移り、萩の松本は敬の系統坂高麗左衛門(さか・こうらいざえもん)が中心となりました。松 本焼と深川焼の分派です。
深川の窯は17世紀末に御用窯から民窯となり、江戸を始め各都市への流通も果たすという、旺盛な生産を続けました。一 方、松本では、17世紀半ば過ぎから初代三輪休雪や初代佐伯半六(林半六)らが新たに御用工とされ、生産体制が強化さ れます。
なお、坂家3代目辺りまでの、18世紀初期頃までの作品が、「古萩」と呼ばれる萩焼黄金時代とされており、特に珍重さ れました。

和様への転換と磁器生産

江戸時代中期には新しい動きが起こります。元禄13(1700)年、初代三輪休雪が楽焼修業を命じられて上洛。これは、こ れまで朝鮮式施釉陶を指向していた藩の生産方針が、和様に向かう転機とみなされています。その後、楽焼は三輪家のお 家芸化し、代々生産が行われました。名工、6代林半六(泥平)の和歌入りの碗等にも和様化の影響が見られます。また 、文人趣味による煎茶の流行を受け、御用窯でも煎茶器の生産が指示されました。
江戸時代後期の19世紀には、萩郊外の小畑(おばた)で磁器の生産も始まります。文政6(1823)年には白磁器の製造も 始まり、小畑の7つの窯がそれを担当しました。

近代の困窮と復興

明治時代に入ると、藩の庇護を失った御用窯をはじめ、各窯は動揺・困窮します。内外の博覧会への出品や、名工大和松 緑の活躍等により、一時は活況への道も見え始めますが、有田や瀬戸等の大産地に押され、次第に衰退への道を進みまし た。
大正から昭和にかけても不況の状態でしたが、江戸期を通して作られ茶陶への回帰が試みられるようになります。中でも 12代坂倉新兵衛は表千家に入門し、その伝来品を写すなどして、「茶陶の萩」の印象を広め、後の萩茶碗流行に繋げまし た。
また民芸運動や古陶再現の全国的な高まりや、10代三輪休雪(休和)の古萩研究とその再現の功績等により、名立たる陶 芸産地としての復興を遂げました。今日では、伝統に加え、現代的・前衛的作風も共存する多彩な産地として、賑わいを みせています。

萩焼の作風・造形・器種

高麗茶碗を意識し朝鮮陶工が作った萩焼の作風には、やはり朝鮮系の影響が大きいといえます。標準的な特徴である白黄 色の釉面に石ヒビが入る姿や、十字切りされた割高台、白土象嵌された三島、枇杷釉・白萩釉等にもそれが見てとれます 。また、登窯の使用や朝鮮式蹴轆轤(けろくろ)の使用など、製法的にも確かです。しかし、歪み等の織部風の作為も見 られることから、早い段階での和様の影響も窺われます。なお、その他の作風では胎土に粗砂混じる鬼萩や楽・天目・伊 賀・仁清・染付等があり、多彩を極めました。
そして、その造形も多彩で、高麗風の井戸や熊川(こもがい)等に、李朝祭器を意識したもの、また織部風の沓形や、笛 形・俵形に、獅子などの置物等があります。
ところで、茶陶に始まり茶陶で復興した萩焼ですが、出土史料からは、その初期より皿や鉢等の日用雑器が7割も生産さ れていたことが知られています。つまり、本来は幅広い施釉陶器の生産が主で、茶陶は高級種として特製されていた可能 性があるのです。

軽やかな特徴生む土と釉薬

萩焼の軽やかさのもとは、砂礫混じりの大道土(だいどうつち)を主に、粘度調整用の金峯土(みたけつち)と、鉄色添 加用の見島土(みしまつち)を混合した胎土にありました。この配合を変えることにより、色や風合いを調整します。
また釉薬は、長石粉と木灰を混ぜた透明系の土灰釉(どばいゆう)と、それに藁灰を混ぜた白系の藁灰釉が主として使わ れます。なお、古窯の出土品には、飴釉や鮫釉、なまこ釉に黒釉等もありますが、今はほとんど見ることが出来ません。

現在の萩焼。御用窯の多様さ再現か

松本から始まり各地に広がった萩焼。現在では山口県下に多くの窯が存在します。その中には伝統から前衛表現を行なう 多様な創作が共存し、また茶陶を越えた様々な日用作品が作られています。奇しくもそれは、御用窯の意図が今に再現さ れたようにも見えます。

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