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陶磁器全般買取致します

藤原啓の買取実績

 
【強化買取】藤原啓作品の強化買い取りを行っています。

※買取商品の状態によって価格は変わりますので詳しくはお問い合わせください。

掲載されている買取実績についてご質問などありましたら、下記までお問い合わせください。

TEL . 0120-766-299
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営業時間. 9:00 ~ 18:00

遺品整理の買い取りはお任せ下さい

ご家族が亡くなり、いざ遺品整理をしようとしても、価値が判らない、物が多すぎてどこから手をつけて良いのか判らないなど、頭を悩ますことが多いですよね。
生前大事にされていた形見の品など、無暗に手を付けるのは故人に対し申し訳ないと、処分するにもなかなか手が進まない場合もあるでしょう。

浪漫ドロップではそんな悩みの多い遺品整理を、遺品整理士の資格を持った担当者がご遺品の買取をさせて頂いています。
故人が大切にしていたコレクションや、お家の家財道具一式は勿論のこと、引き継いだ物の量が多すぎて置き場所に困っているご遺品の数々を、適切に選別させて頂き高価買取いたします。
遺品整理にて売りたい骨董品や美術品、故人が大切にしていたお品物がありましたら、浪漫ドロップへお任せください。

家屋・蔵の解体時の買取はお任せください

ご空き家やリフォーム・建て替えで古くなったお家や蔵の解体をする際、処分に困るのが解体業界で「残地物」と呼ばれる廃棄物です。
解体業者さんに処分を依頼すると追加料金がかかるので、解体費用より処理費用の方にお金がかかってしまったり、本来は売れる物でも処分費用がかかってしまったり、お客様が損してしまうケースが多いです。

そんな悩みの種の「残地物」を浪漫ドロップでは丁寧に選別・査定させて頂き価値を見出し高価買取しております。
旧家・古民家、蔵の残地物でお困りの方は、お気軽にお問い合わせ下さい。
美術品や骨董品の買取は勿論のこと、格子戸や帯戸、藏戸などの建具類まで、家屋や蔵の中のお品物を無料査定・出張買取致します。
家屋や蔵を解体するご予定がありましたら、何も処分しない状態で取り壊す前にぜひ、浪漫ドロップへご連絡下さいませ。

陶磁器を知る~藤原啓(ふじわら・けい)~


奇跡と天賦。異端の巨匠

現代備前焼の陶芸家、藤原啓(ふじわら・けい)。巨匠、金重陶陽山本陶秀らと並んで人間国宝となり、「備前焼三人衆」の一角として、共に現代備前を牽引しました。 陶陽・陶秀らと同様に、桃山時代(16世紀末)以前の「古備前」を範としましたが、より素朴で明快、そして時に奔放な表現を追求して特異の存在感を放ちました。 また、その経歴も異質なものでした。青年期は文学を志して郷里から出奔して各地を彷徨。東京での記者生活や詩集の出版、また社会運動への参加などを経て郷里岡山で作陶を始めたのが、なんと40歳を過ぎた頃からでした。
器体成形や焼成技術の習得に長い年月を要する備前焼を中年から始めて人間国宝にまで達した藤原啓。努力が必要な幾多の困難にも遭いましたが、先輩作家の陶陽らとの出会い・指導といった奇跡にも恵まれ、天賦の才を開花させることが出来ました。また、同じく文学志望で、視力障害もあった長男の藤原雄を、助手として中途から育て上げ、史上初の親子2代人間国宝認定の快挙に貢献するなど、後進指導にも、その異端的才能を発揮しました。

文学に傾倒し郷里出奔

藤原啓(本名啓二)は、明治32(1899)年、岡山県和気郡伊里村穂浪(わけぐん・いりむら・ほなみ。現岡山県備前市)の農家の三男として生まれました。備前焼の中心地、伊部(いんべ)に近い地とはいえ、その後40年に渡る陶芸とは無縁の半生が始まります。年少より俳句や短文を雑誌に投稿して入賞するなど、文学への傾倒を示しました。「私立閑谷黌(しずたにこう。旧制中学)」を中退後、大正7(1918)年から小学校の代用教員となりますが、翌8年、20歳の時に職を辞して郷里を出奔します。神戸・大阪・京都を転々としながら、文友らと交友して文学や社会問題を論じ、また、工場労働や奉仕団体での生活なども体験します。同年、東京の出版社「博文館」での職を得て上京。編集部勤務の傍ら、仕事で知り合った文士らと交流し、自身でも詩集を出版するなどしました。また、早稲田大学英文科での聴講のほか、デッサン・演劇なども学び、キリスト教会での受洗や社会主義・共産主義運動に傾倒して検束されるなど、旺盛な好奇心・行動力も発揮します。

文筆独立と挫折

大正15(1926)年には編集長との諍いにより博文館を飛び出します。その後は日活で脚本制作や映画製作を行ったり、訳詩集の出版や雑誌編集を行ったりしますが、昭和5(1930)年に再び博文館へ。しかし、人に使われることの疑問から、同年中に退社・独立します。以降は、自営の文筆業者「穂浪健児」として、雑誌には詩文や随筆、地方新聞には小説などを執筆して生活していました。31歳となる翌年には一旦郷里に戻って結婚し、長男をもうけましたが、ほとんど東京で生活します。しかし、やがて自らの文学や思想に挫折を感じて強度の神経衰弱を患い、昭和12(1937)年に郷里へ引き揚げ静養することとなりました。人生最大の危機の訪れです。

危機からの回復。40歳で陶芸半生へ

幸い郷里での静養は功を奏し、啓は回復へと向かいます。その様な中、同郷の万葉学者、正宗敦夫に勧められ、穂浪の陶工三村梅景より備前焼の基礎を学ぶ機会を得ました。そして、昭和14(1939)年に記念すべき初窯を焚きます。時に啓40歳。陶芸半生の始まりでした。当初は上手くいかず生活の為にまた雑文を売る日々でしたが、同16年に古備前復原で成果を上げ始めていた金重陶陽と出会い、その指導を受け始めて進展が訪れます。

遅咲き作家の快進撃

昭和17(1942)年には初の個展を開催し、同23年には備前では陶陽と山本陶秀にしか与えられていなかった国指定の丸技作家資格を得て、作陶一筋を決意します。同28年には東京で初個展を開催し、同29年にも書家・陶芸家の北大路魯山人の斡旋により東京個展を実現させます。同30(1955)年には日本伝統工芸展に初入選し、同32年には岡山県無形文化財保持者にも認定され、遅咲き作家の快進撃はその後も止まることを知りませんでした。 昭和37(1962)年にはプラハ国際陶芸展で受賞して世界にも進出し、同44年には皇居新宮殿に「備前擂座壺(るいざつぼ)」一対を納める栄誉も得ます。そして昭和45(1970)年、人間国宝に。同46年には勲四等旭日小綬章を受章し、その後も昭和58年(1983)に84歳で亡くなるまで活動を続けました。同年没後、勲三等瑞宝章追贈。

多面的作風、人生反映か

藤原啓は、桃山古備前を範とした金重陶陽とは異なり、より素朴な鎌倉時代(12世紀末~14世紀半ば)の作風を追求したといいます。それは「無作為」と称され、どこか愛らしさもある作品の特徴とも重なります。しかし、代表作「備前大徳利形壺」のように繊細かつ技巧的な例もあり、豪放・素朴の評価だけでは捉えられない多面性も有しています。
「無作為」が優れた技術に裏打ちされたことを証するものか――。特異で熱い、その人生の反映かもしれません。

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