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萬古焼の買取実績

 
【強化買取】萬古焼の強化買い取りを行っています。

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遺品整理の買い取りはお任せ下さい

ご家族が亡くなり、いざ遺品整理をしようとしても、価値が判らない、物が多すぎてどこから手をつけて良いのか判らないなど、頭を悩ますことが多いですよね。
生前大事にされていた形見の品など、無暗に手を付けるのは故人に対し申し訳ないと、処分するにもなかなか手が進まない場合もあるでしょう。

浪漫ドロップではそんな悩みの多い遺品整理を、遺品整理士の資格を持った担当者がご遺品の買取をさせて頂いています。
故人が大切にしていたコレクションや、お家の家財道具一式は勿論のこと、引き継いだ物の量が多すぎて置き場所に困っているご遺品の数々を、適切に選別させて頂き高価買取いたします。
遺品整理にて売りたい骨董品や美術品、故人が大切にしていたお品物がありましたら、浪漫ドロップへお任せください。

家屋・蔵の解体時の買取はお任せください

ご空き家やリフォーム・建て替えで古くなったお家や蔵の解体をする際、処分に困るのが解体業界で「残地物」と呼ばれる廃棄物です。
解体業者さんに処分を依頼すると追加料金がかかるので、解体費用より処理費用の方にお金がかかってしまったり、本来は売れる物でも処分費用がかかってしまったり、お客様が損してしまうケースが多いです。

そんな悩みの種の「残地物」を浪漫ドロップでは丁寧に選別・査定させて頂き価値を見出し高価買取しております。
旧家・古民家、蔵の残地物でお困りの方は、お気軽にお問い合わせ下さい。
美術品や骨董品の買取は勿論のこと、格子戸や帯戸、藏戸などの建具類まで、家屋や蔵の中のお品物を無料査定・出張買取致します。
家屋や蔵を解体するご予定がありましたら、何も処分しない状態で取り壊す前にぜひ、浪漫ドロップへご連絡下さいませ。

陶磁器を知る~萬古焼(ばんこやき)~


萬古に優れる伊勢のやきもの

萬古焼(ばんこやき)は三重県北部・伊勢地方産の焼物で、江戸中期(18世紀前半)に始まり、同後期(19世紀前半)に再興されて現在まで続いています。元は京焼や大陸風の茶陶(ちゃとう)等を手がけましたが、明治以降は赤土の急須や土鍋等で知られました。 その名は、創始者の沼波弄山(ぬなみ・ろうざん)の屋号・萬古屋からとされ、永く優れるという意味の「萬古不易」「萬古」の印を作品に捺したことに始まります。 京風の色絵陶器に優れ、異国意匠も採り入れた精巧かつ斬新な弄山作品は、鎖国期の知識階級に人気を博しました。その影響は近隣に安東焼を生み、江戸にも進出しますが、18世紀後半に一旦廃絶します。この最初期の萬古焼は、古萬古・江戸萬古・古安東、または一括して「初期萬古」と呼ばれ、特に珍重されます。
江戸後期には森有節(ゆうせつ)が伊勢で萬古焼を復興し(有節萬古)、再興された安東焼や派生の射和(いざわ)萬古・四日市萬古・桑名萬古共々「再興萬古」と呼ばれます。明治以降は四日市が中心となり、明治萬古・大正萬古から四日市窯業へ、その他は阿漕焼や松阪萬古となり現在に続きます。また二本松萬古や美濃萬古等、遠方へも派生しました。 各窯・各時代に特徴を有し、また近代窯業と化す流れもあるなど、その姿は多彩です。

萬古焼のはじまり

伊勢には古くから窯業痕跡があり、中世には「伊勢壺」という特産もあったようです。そして、桃山から江戸初期(16末~17世紀)には、瀬戸焼系の「伊勢天目」や「桑名焼」という茶陶が記録され、萬古焼との関連も推測されますが、定かではありません。
今日の萬古焼の始祖は、桑名の陶器商・沼波弄山(1718-1777)です。幼少より茶道を好み、京の表千家で奥義を受けてやがて楽茶碗作りを試み、それが弄山楽焼として評判を得た人物でした。そして、元文年間(1736-40)に、桑名近郊の小向(おぶけ)に窯を開き、京の尾形乾山の陶法に基づく作陶を始めました。ただ、当初から技法に通じていたとは考えにくく、京焼か桑名焼の陶工を招いたのではないかとも推測されています。

精巧独自の作品で隆盛へ

弄山の萬古焼は内外の茶陶の写しに始まりました。そして、享保の改革後の蘭学流行の中で、赤絵等にも異国意匠を採り入れ、独自の作風を創造します。やがて、それを江戸の支店でも売るようになり、将軍家御用ともなる好評を得ました。そこで、宝暦年間(1751-63)に江戸小梅に窯を築き、熟練工や陶土を移して現地生産に乗りだします。 江戸萬古や小梅萬古・武蔵萬古とも呼ばれるそれらは繁盛し、弄山没後は番頭らが生産を続けました。しかし、次第に採算が合わなくなり、寛政12(1800)年頃に廃業します。なお、江戸進出後の伊勢の動向は不明ですが、ある程度継続して製作されたとされます。

萬古復興。有節兄弟の活躍

天保3(1832)年、桑名の古物商、森有節・千秋兄弟が小向で萬古焼の再興に乗りだしました。当初は古萬古の写し、のちに新技法を開発して、文人趣味の煎茶用急須等に導入し、華麗な絵付や精巧さで人気を得ます。桑名藩の庇護も受け、明治以降は博覧会受賞や皇室買い上げの栄誉も受けました。そして有節の死後は子が窯を継ぎ、現在まで続きます。 一方、南伊勢では、幕末に射和萬古が興りますが、振るわずに7年で閉窯し、今日まで続く松阪萬古に引き継がれました。また、桑名では有節の模倣窯が多く現れ、幕末から明治にかけて盛業します。安東焼も幕末に復興されたのち阿漕に移りますが、明治中期に閉窯し、その派生窯が繁盛して阿漕焼として現在まで続きます。

四日市萬古の隆盛

明治に入ると、四日市の地主・山中忠左衛門が苦心の末、有節萬古の模作に成功し、四日市萬古を興しました。彼は窮民に陶技を公開し、地場産業の育成に貢献します。そしてその製品を、川村又助や堀友直等の事業家が内外へ販売して後押し、発展させました。 停滞・廃窯した他窯と異なり、専用問屋が存在し、交通至便で海外にも大量販売された四日市萬古は萬古焼の中心となります。そして、明治半ばに従来の白土が枯渇すると、岐阜県美濃の温故(おんこ)焼技法による、赤土急須への生産転換も行われました。

大正焼の成功と今日の隆盛

明治末の不況を経て大正に入ると、水谷寅次郎が半磁器式硬質陶器・大正焼を生みだし成功します。近代的な石炭窯や機械式轆轤(ろくろ)等が導入され、製品の特性を活かした火鉢や土瓶が作られ、またタイル等の資材陶器作りも盛んになりました。
昭和に入ると恐慌の統制により軟質陶器が考案され流行しますが、洋式の硬質陶器の実用化にも成功します。その後、戦争の混乱を経験しますが、いち早く復興し、トンネル窯による生産増大やペタライト耐熱陶器等の開発を成し遂げました。現在では一大窯業地であると共に、萬古焼やその他の陶芸製作も行われる、一大陶芸産地ともなっています。

作風と技法

初期萬古の茶陶の写しは楽焼・乾山・清水・美濃焼・南蛮・朝鮮・中国・交趾(こうち)等があり、いずれも優れたものでした。主流は赤絵で、中国山水・霊獣・更紗模様にオランダの銅版画やその文字を描いた異国趣味的で斬新なもの。器種は鉢・盛盞瓶(せいさんびん)・銚子・茶器・花器・文具等があり、また温もりある色合いの青磁製作も優れました。 有節の再興萬古は、粉彩による華やかな大和絵が特徴で、重ね塗りや盛り絵も行なわれ、桃色が艶やかな腥臙脂釉(しょうえんじゆう)も特筆されます。成形は木型に陶土を貼る独自製法で、精巧な彫刻や可動式のツマミや環等が特徴的でした。射和萬古は独自性を得ずに廃窯しますが、阿漕焼は象嵌焼とよばれた陶胎七宝焼や石膏型等を開発します。
四日市萬古は、有節萬古やその亜流の桑名萬古の技を併せて近代以降主流となり、技や作風を進化・変容させていきます。奇抜な土瓶や人形等でも知られましたが、赤土の急須がその後の萬古焼の印象を決定づけます。還元焔焼成により紫に変色したそれは、紫泥(しでい)と呼ばれて生産の主流をなし、国指定の伝統工芸品にも認定されました。

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