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陶磁器全般買取致します

坂高麗左衛門の買取実績

 
【東京都武蔵野市】遺品整理にて十一代坂高麗左衛門の茶碗を買取…

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遺品整理の買い取りはお任せ下さい

ご家族が亡くなり、いざ遺品整理をしようとしても、価値が判らない、物が多すぎてどこから手をつけて良いのか判らないなど、頭を悩ますことが多いですよね。
生前大事にされていた形見の品など、無暗に手を付けるのは故人に対し申し訳ないと、処分するにもなかなか手が進まない場合もあるでしょう。

浪漫ドロップではそんな悩みの多い遺品整理を、遺品整理士の資格を持った担当者がご遺品の買取をさせて頂いています。
故人が大切にしていたコレクションや、お家の家財道具一式は勿論のこと、引き継いだ物の量が多すぎて置き場所に困っているご遺品の数々を、適切に選別させて頂き高価買取いたします。
遺品整理にて売りたい骨董品や美術品、故人が大切にしていたお品物がありましたら、浪漫ドロップへお任せください。

家屋・蔵の解体時の買取はお任せください

ご空き家やリフォーム・建て替えで古くなったお家や蔵の解体をする際、処分に困るのが解体業界で「残地物」と呼ばれる廃棄物です。
解体業者さんに処分を依頼すると追加料金がかかるので、解体費用より処理費用の方にお金がかかってしまったり、本来は売れる物でも処分費用がかかってしまったり、お客様が損してしまうケースが多いです。

そんな悩みの種の「残地物」を浪漫ドロップでは丁寧に選別・査定させて頂き価値を見出し高価買取しております。
旧家・古民家、蔵の残地物でお困りの方は、お気軽にお問い合わせ下さい。
美術品や骨董品の買取は勿論のこと、格子戸や帯戸、藏戸などの建具類まで、家屋や蔵の中のお品物を無料査定・出張買取致します。
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陶磁器を知る~坂高麗左衛門(さか・こうらいざえもん)~


江戸初期から続く萩焼の名跡

坂高麗左衛門(さか・こうらいざえもん)は、山口県萩市に江戸時代初期から伝わる 萩焼の始祖家で、開窯から現在に至る13代の歴史を有します。初代は朝鮮半島の陶工李敬(り・けい)とされ、桃山時代末頃(16世紀末)に渡来したとされます。
藩主毛利氏の庇護の下、萩東郊の松本に土地を賜り、以後長州藩の御用窯として代々萩焼の製作に従事しました。当初、坂本助八(のち坂助八)を名乗りますが、17世紀初期に藩主から「高麗左衛門」の名を授けられ、当主襲名の名跡(みょうせき)となります。そして、17世紀半ばには、同じ始祖家の上位であった山村家が西方の深川(ふかわ)へ移ったため松本萩の総領となり、更に山村家が衰退すると、萩焼の宗家となりました。その後は、廃藩や大戦の荒波を受けましたが、都度当代が乗りきり、無事戦後の萩焼復興を迎えて、今に至る名跡と窯の存続を成し遂げたのです。その作風は、初代から始まった朝鮮風の技と趣を伝えます。坂家は、御用窯として高麗 茶碗に倣った萩焼の原点を維持しつつ、各代それぞれの作陶を展開しました。

萩焼と坂家のはじまり

萩焼には坂高麗左衛門と、もう一人の始祖がいます。それは、李勺光(り・しゃっこう)で、同じく朝鮮半島出身の陶工とされました。勺光は豊臣秀吉の文禄・慶長の役に長州藩祖、毛利輝元が出征したことを機に日本へ渡来します。そして、その弟として後日妻帯渡来したのが李敬でした。ただし、当時の史料はなく、兄弟ではないとの説もあります。その後、関ヶ原の戦いで毛利氏は減封となり、1604年に萩へ本拠を移します。二人もそれに従い、松本の屋敷地と、薪・土採り場の「唐人山」を賜り、窯を開きます。これが萩焼と坂家の始まりとなりました。李勺光は萩にて妻帯して山村姓を名乗り、李敬は坂本姓を名乗り始めますが、勺光の子を敬が育てるなど、製陶共々親密な生活を送ったようです。

名跡のはじまりと松本焼の総領へ

寛永2(1625)年には初代藩主毛利秀就より「高麗左衛門」の名と家禄を賜り、その名跡が始まります。そして、同じく「作之允」の名を賜った御用窯の総領、山村家の統御を受けました。しかし、山村家の2代松庵が殺人を起こし、後に仇討で没するとその地位は失墜します。また明暦3(1657)年に深川に新たな窯が開かれ(深川焼)、山村家や弟子がそこに移ると、萩(松本焼)でのその役割は坂家のものとなりました。 なお、深川分窯の影響で、松本も一時寂れましたが、新たに三輪休雪家と佐伯半六(のち林半六)家が配下に加わり、3窯体制の全盛期を迎えます。また、一族から出た倉崎権兵衛が出雲松江藩の御用窯「楽山焼」を創始したことも特筆されます。

古萩の終焉と新風流入

江戸中期の18世紀に入ると、3代坂高麗左衛門(忠順・新兵衛)が奈良東大寺の落慶法要に大量の「大仏茶碗」を寄進するなどします。この、坂家と山村家の3代目まで辺りの作品が「古萩」と呼ばれ、珍重されます。また、御用窯に和様の楽焼の導入や、煎茶器の生産が命じられるなど、新風も吹き込まれました。そして、18世紀後半に山村宗家が断絶すると、名実共に萩焼の宗家となります。江戸後期の19世紀初期には8代目坂高麗左衛門(忠陶・翫土斎)が藩命を受けて大坂・京へ上り、豪商所蔵の古萩名器を写し取るなど、技術鍛錬を行なうなどもしました。

廃藩や戦争の荒波越え繁栄へ

明治に入ると、廃藩置県により藩の庇護を失い自立自営を余儀なくされます。この荒波を9代坂高麗左衛門(道輔・韓岳)が、万博出品での受賞や販路拡大で乗り切りましたが、時代が進むにつれ不況となり、両大戦の影響も受け困窮します。しかし、戦後萩焼復興が叶い、今日に続く繁栄を得ました。現在は12代坂高麗左衛門(達雄・熊峰)と13代坂高麗左衛門(純子)の急逝のため空位となっていますが、後継者が準備を行なっています。

歴代の作風

坂家の作風は、3代までの古萩時代は、枯れた大陸風を濃厚とします。初代作と伝わる粉引手(こひきで)茶碗にもそれが窺えます。また、幕末の名工8代坂高麗左衛門は細工物や変わり茶碗等にも秀でました。9代坂高麗左衛門も、伝来の大陸風に煎茶器等の新風を融合させて近代の名工と呼ばれます。10代坂高麗左衛門(秀輔・韓峯)は、紫釉の「なだれ」を創出し、8代考案の貫入への弁柄入れ「朱嵌(しゅがん)」も得意としました。11代坂高麗左衛門(信夫・韓峯)は元美術教師らしく、斬新な釘彫りの魚紋や、青みある白いなだれ釉を生みだします。

萩焼の生きた博物館

約400年の萩焼の歴史と歩みを共にした坂高麗左衛門家。その屋敷や窯は、今も当初の唐人山麓にあります。その敷地には萩焼最古の窯も発見されており、萩焼研究に重要な材料を提供しています。脈々と受け継がれる技と血統。その存在は、まさに萩焼の生きた博物館ともいえるでしょう。

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