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大樋長左衛門の買取実績

 
【茨城県ひたちなか市/遺品整理】大樋長左衛門 雨釉茶碗

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遺品整理の買い取りはお任せ下さい

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家屋・蔵の解体時の買取はお任せください

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陶磁器を知る~大樋長左衛門(おおひ・ちょうざえもん)~


加賀百万石の茶陶、大樋焼の祖

大樋長左衛門(おおひ・ちょうざえもん)は、江戸初期(?-1712年)に現石川県金沢市で活躍した陶工で、広義にはその家名としても扱われます。現大阪府南東の陶工家系に生まれ、京に出たのち、茶人・千仙叟(せんそう)宗室と共に加賀藩主・前田家に仕えて、飴釉(あめゆう)かかる独特の楽焼茶器を創出し、御用窯・大樋焼の開祖となりました。当初の名は土師(はじ)長左衛門。幕末から明治(19世紀後半)に当代当主が記した由緒書等によると、平安初期(10世紀初頭)に河内で作陶を始めた家系の出身だとされます。仙叟の指導を受け、その好みの茶器を作ったとされ、千家との関係や技法から、樂家への出入りが推察されています。そして、その子孫も代々加賀藩御用窯師を務めました。

初代長左衛門と大樋焼のはじまり

大樋家初代・大樋長左衛門は河内国土師村に17世紀初期に生まれたとみられます。平安初期発祥の陶工・土師氏の23代で、明暦2(1656)年に京へ出て二条瓦町に居住しました。寛文6(1666)年、4代加賀藩主・前田綱紀(つなのり)に招かれ、「陶器御用」を務めます。また、加賀藩に仕官していた仙叟宗室に同行して来藩し、金沢残留を願い出たとも伝わります。金沢大樋村に土着して大樋氏を名乗り、正徳2(1712)年に病没しました。仙叟の指導で大樋焼を確立したとみられる長左衛門の作風は、薄づくりで飴色の釉薬、飴釉が特徴。また、奇抜な器形に窯変や削り跡を露わにした豪放さや渦巻き模様等もあり、仙叟好みを窺わせますが、樂家の作風とは異なる独自のものでした。

2代以降の活動と作風

大樋家2代は、初代と同じく大樋長左衛門を名乗ります。5代藩主・吉徳(よしのり)や6代宗辰(むねとき)の陶器御用を務め、延享4(1747)年に没しました。2代の作品は僅かしか残っていません。それらからは、仙叟好みの初代の作行きやノンコウ(樂道入)の影響が窺われますが、繊細といえる荒さも感じられます。
大樋家3代は、大樋勘兵衛を名乗ります。7代藩主・重煕(しげひろ)・9代重教(しげみち)・10代治脩(はるなが)の陶器御用を務め、享和2(1802)年に没しました。3代の作風も初代の影響・継承がみられますが、荒さのなかに洗練もみられます。
大樋家4代もまた大樋勘兵衛を名乗ります。10代藩主・治脩(はるなが)・11代斉広(なりなが)の陶器御用を務め、二人扶持を許され、縦横6尺もある陶製の獅子を献上したとされます。文政7(1824)年に68歳で隠居して土庵と称し、天保10(1839)年に没しました。4代の作風は、各代の長所を併せた名工と呼ぶに相応しい技量と気品があります。
大樋家5代も大樋勘兵衛を名乗ります。4代隠居後に家督を相続し、将軍への接待や献上用の茶器を製作するなど活躍しました。12代斉泰(なりやす)や13代慶寧(よしやす)の陶器御用も務め、褒賞授与や用地貸与を受けたほか、藩吏に任ぜられて士分にもなり、安政3(1856)年2月に没しました。5代は、黒楽(くろらく)に長け、白釉や絵付け等の多彩な技を導入して作域を広めました。また、食器も手掛け始め、中興的存在となります。
大樋家6代は大樋朔太郎(さくたろう)を名乗ります。5代の陶器御用を手伝うなどして褒賞を得ますが、5代没後間もない安政3年6月に没した為、陶器御用は継ぎませんでした。6代の作品は未熟さあるも造形感覚に優れており、4代のそれに匹敵するものがあります。
大樋7代は大樋道忠(みちただ)を名乗り、その兄とみられる6代の死後、家督を継ぎます。斉泰や慶寧の陶器御用を務めますが、廃藩置県で一旦廃窯し、明治17(1884)年に再興して同27年に没しました。7代の作品は、長い廃窯の影響か、芳しくない評価も得ますが、茶碗は硬軟両様の表現を能くし、みるべきものがあります。

直系窯の断絶とその後

その後、7代の子息らにより大樋の血脈は続きましたが、残念ながら窯の継承者は出ず、直系による大樋焼は断絶します。その後、弟子筋に大樋長左衛門や勘兵衛の名で技や遺品を継ぐ家が現れますが、本来別姓で大樋家との血縁関係はありません。

大樋焼の特徴

大樋焼は楽焼の支流(脇窯)で、同様の軟質陶器でした。小さな内窯を使って一貫生産されますが、藩の御庭焼として他への流通はなく、茶陶(ちゃとう)として少量のみ作られたとみられます。色調には飴・緑・黒・白等があって稀に絵付けがされ、器形には初代・大樋長左衛門創出の奇抜な「聖形」を始め、碗型・筒形・半筒形等がありました。

絶えて不朽の評判得る

初代・大樋長左衛門の金沢入りから約350年。残念ながらその窯は絶えましたが、現在では多くの窯元がその技と作風を継承しています。その活躍もあり、長左衛門と飴色麗しい大樋焼は、広く知られるようになり、不朽の評判を得たのです。

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