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軍装品・軍刀・勲章全般買取致します

軍靴の買取実績

 
遺品整理で処分した旧日本陸軍編上靴
 
コレクション品の整理で手放す旧日本軍の軍靴

※買取商品の状態によって価格は変わりますので詳しくはお問い合わせください。

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遺品整理の買い取りはお任せ下さい

ご家族が亡くなり、いざ遺品整理をしようとしても、価値が判らない、物が多すぎてどこから手をつけて良いのか判らないなど、頭を悩ますことが多いですよね。
生前大事にされていた形見の品など、無暗に手を付けるのは故人に対し申し訳ないと、処分するにもなかなか手が進まない場合もあるでしょう。

浪漫ドロップではそんな悩みの多い遺品整理を、遺品整理士の資格を持った担当者がご遺品の買取をさせて頂いています。
故人が大切にしていたコレクションや、お家の家財道具一式は勿論のこと、引き継いだ物の量が多すぎて置き場所に困っているご遺品の数々を、適切に選別させて頂き高価買取いたします。
遺品整理にて売りたい骨董品や美術品、故人が大切にしていたお品物がありましたら、浪漫ドロップへお任せください。

家屋・蔵の解体時の買取はお任せください

ご空き家やリフォーム・建て替えで古くなったお家や蔵の解体をする際、処分に困るのが解体業界で「残地物」と呼ばれる廃棄物です。
解体業者さんに処分を依頼すると追加料金がかかるので、解体費用より処理費用の方にお金がかかってしまったり、本来は売れる物でも処分費用がかかってしまったり、お客様が損してしまうケースが多いです。

そんな悩みの種の「残地物」を浪漫ドロップでは丁寧に選別・査定させて頂き価値を見出し高価買取しております。
旧家・古民家、蔵の残地物でお困りの方は、お気軽にお問い合わせ下さい。
美術品や骨董品の買取は勿論のこと、格子戸や帯戸、藏戸などの建具類まで、家屋や蔵の中のお品物を無料査定・出張買取致します。
家屋や蔵を解体するご予定がありましたら、何も処分しない状態で取り壊す前にぜひ、浪漫ドロップへご連絡下さいませ。

軍装品を知る~軍靴(ぐんか)~

軍服に欠かせぬ縁の下の力持ち

軍靴(ぐんか)とは、軍隊の構成員(軍人)の履物で、特に近代以降のものを指します。日本のそれは、幕府や各藩が近代洋風軍備に刺激されて軍服共々幕末に導入したものが起源とされ、明治以降は国軍の装備として規定され、使用と改変が続けられました。 軍服の足元を引き締め、行動を助ける縁の下の力持ち、軍靴。ここでは、明治から昭和の敗戦まで使用された旧大日本帝国陸海軍の各種軍用履物について解説します。  軍靴の着用対象者は、陸軍では憲兵・屯田兵を含む兵科将兵のほか、軍医・薬剤・獣医・法務・経理(監督・軍吏)・軍楽等の各部将兵に、陸軍諸学校生・軍属等で、海軍では兵・海兵・航空(飛行)・整備・機関・工作(船匠)・法務・主計・技術(造船・造兵・造機・水路)・軍医・衛生(看護)・薬剤・歯科医・軍楽等の各部科に、海軍予備員・海軍諸学校生・海兵団・軍属等々、旧陸海軍内の広範に及びました。

陸軍軍靴のはじまり(明治期)

陸軍の制服が定められたのは、明治3(1870)年。最初期の服制「陸軍徽章」より改正を繰り返し、徐々に体裁を整えていきます。当初の陸軍軍靴は、将校用が乗馬用金色拍車(はくしゃ)を付けられる長靴(ちょうか)と短靴(たんか)、下士官以下用は官給品の単靴(たんか)・工兵靴(こうへいか)・長靴がありました。長靴はいずれも乗馬部隊用の茶革ブーツ、短靴はサイドゴアブーツ(脇ゴム靴)、単靴は靴底に鋲が打たれた黒革紐靴、工兵靴は靴内に覆い革がついた工兵用の黒革編上靴で、軍靴の基本を成します。また、同時に長靴以外と組み合わせて使う脛(すね)保護用の脚絆(きゃはん)も定められました。 しかし、当初これらの軍靴は服制の手本、フランスの木型で作られたため日本人には合わず、将兵の多くが足袋や草鞋(わらじ)・草履(ぞうり)を使用します。同10年の西南戦争では参謀の山縣有朋も「山足袋」を多用したとされるほど。正式は革靴でしたが、戦地では草鞋・布草鞋が使われ、同27年の日清戦争や38年の日露戦争の際も軍用草鞋が数多く持参されました。そして、日露戦争中から半靴に代わり編上靴の使用が広まります。

海軍軍靴のはじまり(明治期)

旧海軍の制服が定められたのも明治3年。イギリス式を旨とする「海軍服制」で初めて規定され、同じく改正を繰り返し、体裁を整えます。士官では、短靴・半靴(はんか)・長靴があり、短靴は目無し靴とも呼ばれたサイドゴア型、半靴は陸軍単靴と同様のもの、長靴も陸軍のそれと同様でした。いずれも黒革製で、礼装用の短靴は後に「村長靴」のあだ名も付きます。また夏服用の白リネン貼りや白革、楽隊等用の上質革を使った黒半靴もありました。水兵等の下士以下は当時「マドロス」と呼ばれた半靴で、爪先がやや細い茶褐色の革製でした。また、水兵は事業服(戦闘服)で履く木綿裏麻の厚底紺足袋も使用します。その他では、防寒用に昔ながらの藁靴(わらぐつ)も使用されました。日露戦後は羊毛が内貼りされた寒冷地用の黒革半長靴、防水ゴム長靴の艇靴(ていか)も使用されます。

大正・昭和の陸軍軍靴

大正に入ると、陸軍では元来民生用の丈夫で履き易い帆布ゴム底の地下足袋(じかたび)を採用。当初は爪先が割れない型、後に割れた型となり、編上靴と共に戦場に携行され活躍します。また、飛行兵用に無鋲の航空用長靴や航空半長靴、降下用編上靴が用意されました。防寒靴も進化し、単靴にフェルトを足した紐なし長靴の乗馬用防寒長靴や防寒作業靴、帆布地に毛等を裏貼りした歩兵用の防寒編上靴が使用されます。 ところで、下士以下の戦闘靴の主流となった編上靴は、茶褐色の牛革を綿糸で縫い保革油と防水蝋で仕上げたフランス風でした。後部に吊り下げ用のつまみ革が付き、紐穴は5個、靴底も革製で踵に化粧革が貼られ、鋲や補強の木釘・金具にJ字の踵鉄(かかとてつ)が打たれます。足首内側表面にサイズの文(もん)数表記の点字があり、土踏まずに型式と製造年を示す円刻印と検定黒印が押されました。鋲は表面処理された鉄製円錐台型で当初はそれが23個と中央に三角のもの1個が付き、後に36個程となります。また付属品は先に金具が付く綿製の丸靴紐とフェルトの中敷きでした。将校用は紐穴が多めで上部がフック式となっているものもあります。そして昭和16(1941)年に大東亜戦争が始まると、資源節約の為に紐穴が3個、鋲数が20個に減らされ踵鉄も小片化。同19年には靴底がゴムに変更され、更に物資不足が深刻になると、帆布や豚・馬革に鮫皮の物も造られました。

大正・昭和の海軍軍靴と終焉

海軍では、大正3(1914)年に陸戦隊がカーキ色軍服と共に陸軍45年式編上靴を着用して第1次世界大戦に参戦。同5年には毛皮を内貼りした黒革ゴム底編上靴の航空靴が初めて制定されます。同8年には短靴に代わり半靴の礼装使用が許可。9年にはゴム底の茶革半靴にフェルトを足した特製防寒靴がシベリア出兵に使われました。同14年には航空靴が茶革に変更され、ゴム長(なが)式の胴付き長靴の航空作業靴が制定されます。 昭和2年、下士以下の半靴が黒染めとなり、同4年には羊毛皮を内貼りして側面に編上げが付いた半長靴の航空靴が制定されました。同8年には事変を教訓にした黒革鋲付きの編上靴とゴム底紺足袋(地下足袋)に、茶褐色帆布製のゴム底半靴の整備靴も制定。9年には赤茶牛革の半長靴型航空靴や、艇靴より若干短い烹水(ほうすい)作業靴も定められ、翌年頃から白か褐色の帆布半靴の防暑靴が艦内で使用されます。大戦が始まる同16年以降は落下傘部隊用の黒革ゴム底の半長靴型編上靴の降下靴や、総ゴム製半靴のアサヒ靴も採用。17年には航空靴が黒革となり雲斎(うんさい。綿織布)貼りの航空夏靴も制定されました。また、膝下にベルトが付く黒革半長靴型の准士官以上用防寒長靴も使用。大戦末期となると、物資不足により木綿や代用革製の航空略靴や粗製の紺足袋も使われます。 そして、昭和20年の敗戦。陸海軍軍靴はその役割を終えると共に、歴史を閉じたのです。

その他の陸海軍靴

その他の履物は、陸軍では営内用紐なし単靴の営内靴や陸軍スリッパに下駄、生徒用のベルト締め帆布単靴の体操靴、前底と帆布製覆いが付いた被覆式のガス靴、爪先が平らな黒革のスキー靴等があり、海軍では紐穴が少ない半靴の艦内靴や、罐(かま)焚き用の鉄枠入り黒革半靴の安全靴、黒帆布半靴の体操靴、ゴム圧着布製編上靴をスリッパ型の鉛で覆う潜水靴や潜水特攻用の鉛草履(不使用)等がありました。

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