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丹波焼の買取実績

丹波焼
買取実績:【強化買取】丹波焼の強化買取を行っています。

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遺品整理の買い取りはお任せ下さい

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浪漫ドロップではそんな悩みの多い遺品整理を、遺品整理士の資格を持った担当者がご遺品の買取をさせて頂いています。
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遺品整理にて売りたい骨董品や美術品、故人が大切にしていたお品物がありましたら、浪漫ドロップへお任せください。

家屋・蔵の解体時の買取はお任せください

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解体業者さんに処分を依頼すると追加料金がかかるので、解体費用より処理費用の方にお金がかかってしまったり、本来は売れる物でも処分費用がかかってしまったり、お客様が損してしまうケースが多いです。

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旧家・古民家、蔵の残地物でお困りの方は、お気軽にお問い合わせ下さい。
美術品や骨董品の買取は勿論のこと、格子戸や帯戸、藏戸などの建具類まで、家屋や蔵の中のお品物を無料査定・出張買取致します。
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陶磁器を知る~丹波焼(たんばやき)~


古格あふれる大物から多彩な名品小物まで

丹波焼(たんばやき)は、兵庫県篠山市で作られる陶器とその産地名で、平安末期(12世紀)頃から現在まで続く、日本六古窯の一つとされています。赤褐色の素朴な自然釉炻器(せっき。焼締陶)や、鮮やかな朱赤色の赤土部釉(あかどべゆう)の壺や甕(かめ)等で知られ、近世以降は多彩な釉掛けや絵付けも導入され、今に続いています。
この丹波焼は、かつて小野原と呼ばれた地域で作られ、小野原焼や立杭焼(たちくいやき)とも呼ばれます。旧丹波国南部に位置し、主に上立杭・下立杭・釜屋集落が生産に関わりました。
生産は大型の壺や甕から始まり、室町末期(16世紀)から小物生産も盛んになります。しかし、流通圏の狭さによる知名度の低さから、茶陶(ちゃとう)としての生産は他窯に遅れました。桃山期(16末~17世紀初頭)からは、赤土部釉や灰釉が使われ、江戸中期(18世紀)以降は陶土・釉薬の改良、藩の振興により表現・器種が増えて技術も上がり、多くの名工・名品を生みました。明治以降は藩の庇護と良土の喪失により低迷しますが、昭和に入ると民芸運動の高まりなどにより復興し、現在の隆盛に繋がります。

丹波焼のはじまり

丹波焼は、付近で作られていた大陸式硬質土器・須恵器(すえき)に影響されて平安末期頃に始まったと推定され、最古の窯とみられる三本峠窯等がそれを裏付けています。また、平安初期(9世紀)に萩から来た風呂藪(ふろやぶ)惣太郎という人物が陶祖であるとの伝説もありますが定かではありません。
その初期は、山腹の窖窯(穴窯)が使われ、成形は紐造りで口部分のみ轆轤(ろくろ)を使う「反り口」が特徴です。器形は整わず、口と胴の区別も曖昧で紐の段差もそのまま。窯や陶土の質により、焼成に半月以上要しましたが、美しい自然釉が得られました。

中世における進化と変化

室町期(14後半~)に入ると、器形が整い始め、口と胴の区別もはっきりします。口は先端が球状の玉縁(たまぶち)となり、紐の段差を補正する猫掻き(ねこかき)と呼ばれる特有の櫛目文が現れます。また、共同作業での識別印・手印(てじるし)も現れました。
室町後期には、窯が集落近くに統合されて大規模となり、重ね焼きも始まります。また中世丹波焼(古丹波焼)としての壺の形が完成を見、徳利や桶形等の大小様々な器種も作られ始めました。
桃山期には量産に向く朝鮮式登窯の導入が始まり、窖窯は最後の時代となります。成形は轆轤を多用し、用途を超えた形への意識が見られ、灰釉等の人工釉の使用も始まりました。また、山椒壺等の「上手物(じょうてもの)」の出現も特筆されます。

登窯による新たな丹波焼と茶陶

江戸初期(17世紀)には、灰釉と赤土部釉が使用され、登窯特有の窯変も加わった新しい丹波焼が作られました。焼成時間も減り、成形も全て轆轤仕上げとなります。
茶陶は桃山期の慶長16(1611)年から記録があり、伝世品では武家茶人の小堀遠州が作らせた「遠州丹波」が著名です。器種は水指(みずさし)や茶入が多く、陶土の粗さや高台づけの習慣がなかったことにより、茶碗はほとんど作られませんでした。

陶土・釉薬改良により名工輩出

江戸中期頃からは、良質の陶土と、白釉・黒釉・鉄釉・土灰釉(どばいゆう)等の使用が始まり、丹波焼は彩り豊かな姿へと変貌します。特に白釉による化粧掛けは表現の幅を広げ、陶工の創作意欲を高めて大窯から個人窯への移行を促しました。また、藩の振興策により御用窯的なものも現れ、丹波焼の使用階層を広げます。
そして、上手物の需要等による技術向上で、作品的製品を手がける名工が生まれました。中でも轆轤技の直八(なおはち)や、色絵に長けた此右衛門に、型物に優れた房吉(ふさきち)らが名品を生み、それぞれ「直作(なおさく)」「一此(いちこの)」「一房(いちふさ)」「花遊(かゆう。房吉晩年)」等の陶印を使用しました。

近代の低迷と現代の賑わい

明治に入ると藩の保護を失った上、良質の陶土が枯渇して丹波焼は低迷期に入ります。それは昭和に至るまで続き、やがて柳宗悦(やなぎ・むねよし)が提唱する、土地に根ざした工芸を称える民芸運動により注目され始めました。また、柳を始め濱田庄司や河井寛次郎、バーナード・リーチらの民芸関係者らも訪れ、影響を与えます。
戦後は土管や硫酸瓶等の資材陶器の量産が盛んとなりますが、昭和40年代以降は経済発展や民芸ブーム等を受け、伝統陶芸が復興しました。昭和53(1978)年には、「丹波立杭焼」として経済産業大臣指定の伝統的工芸品にもなります。そして、現在では60を超える窯元が活動する、一大陶芸産地として賑わうようになりました。

丹波焼の見所・表現

丹波焼は、ほぼ一貫して日用雑器の生産を続けてきました。当初は壺・甕・擂鉢(すりばち)等が主流で、装飾といえるものはありませんでしたが、窖窯での長時間焼成で灰が鉄分と反応して出来た緑や茶色の自然釉(ビードロ釉)等の窯変が見所になっています。
登窯期の江戸初期には朝鮮式の蹴轆轤(けろくろ)や人工釉の利用が始まり、製品も多様化します。灰釉や赤土部釉による新たな窯変はこの時代の特徴です。また、押葉(おしば)・張付(はりつけ)・釘彫・押型等の装飾や、桶・俵・太鼓胴等を象った独自の表現が広口甕等に施されました。なお、この時代までが「古丹波」と呼ばれ、特に珍重されます。
江戸中期から幕末までは、エヘン徳利等の丹波焼を代表する様々な徳利や他の製品に、墨流し・海老文・筒描(つつがき)・色絵・掻落(かきおとし)・飛釉(ひゆう)等が、様々な色釉上に施されました。その後、白釉で化粧された「白丹波」の食器等が多く作られます。この時代は名工による名品も多く、特に「中丹波」と呼ばれることもあります。

たくましく存続する日本的焼物

柳宗悦に最も日本らしい焼物と言わしめた丹波焼。意外にもその陶土は優れず、また内陸故の流通困難も抱えていました。その為か幾多の変貌を遂げますが、新たな名品も生みます。丹波焼は、これからも時代の波をくぐり、たくましく存続してゆくことでしょう。

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